こんにちは、2万人の恋愛の悩みを解決した、復縁アカデミア学長の永峰あやです。
私は恋愛相談師として、これまで20年以上にわたって累計3万人以上の男女から恋愛相談を受けてきました。
もちろん今も相談をお聞きしていて、アドバイスを送った人たちからは
「大好きな人とつき合うことができました!」
「復縁することができました!」
という喜びの声をいただいています。
今回の記事では、
そもそも私はなぜ恋愛相談を受けるようになったのか?
というお話と、
復縁アカデミアを通してあなたに伝えたい想い
についてお話ししたいと思います。
私がなぜ恋愛に悩んだり「復縁したい」と願う男性女性をサポートしているのか?
それをお話しするには、学生時代までさかのぼって、これまでに積み重ねてきた経歴の1つ1つが鍵になっています。
この記事では「永峰あやの経歴ヒストリー」を詳しくお話ししていくのですが、ともかく1番にお伝えしておきたいのは、
ただ復縁のサポートをしてますとか、ただm恋愛成就のサポートをしてますとか、そういう表面的な目的を叶えるため「だけ」のサポートをしているわけじゃない
ということです。
私は、
悩める人を救うことでその人の人生に光が差し込み、前向きに生きられるようになり、人と人のつながりも広がり、結びつきも強くなって社会が健全になる
と思って恋愛や復縁のサポートをしています。
そして、世界が幸せになることにつながると思っているからなんです。
「おいおい、社会が健全にとか、世界が幸せにとか、すげー壮大なこと言ってるなー」
と思われたかもしれません。
ただ私、自分で言うのもなんですが、けっこう壮絶な人生を歩んできてると思うんですよね。
その経歴があったから、壮大にも聞こえる想いが私の中にどうしても芽生えているんです。
なので、どんな人生を歩んできて今こうして恋愛や復縁の情報発信をするに至っているのか、一人の女性の人生ストーリーをぜひ最後まで見てみてくださいね。
この記事を最後まで見てもらえれば、
「永峰さんはこれだけの経験をしてきた人だから恋愛や復縁の悩みにもすぐに答えられるし解決できるんだんだ」
ということもわかってもらえると思います。
そして、他の恋愛コンサルや復縁コンサルのサービスとは、恋愛という以前に「人の悩み」に寄り添ってきた歴史の長さも、そして専門知識や経験という土台も、奥の深さも圧倒的に違うということもわかってもらえると思います。
私は他の恋愛コンサルや復縁コンサルを敵だと思っているわけではありません。
ただ、私のところに恋愛相談、復縁相談に来てくださる方々の声を聴くと、
「他の恋愛コンサルは親身になって話を聞いてくれる感じがしなかった」
「こうすればうまくいきますよ、っていうLINEとかのテクニックばかり教えられて使ってみたけどうまくいきませんでした」
そういった、残念な声が本当に多いんです。
そんな状況では、私までそういう、あまり言いたくないけど「浅い」恋愛コンサルや復縁コンサルと一緒に見られてしまう可能性があるじゃないですか。
だから、他の恋愛コンサルや復縁コンサルとは培ってきた知識や経験の深さが違うということを伝えておきたいと思って、そんな意味もあってこの記事をお届けすることにしました。
これからお話しする経歴を歩んできた私だから、ずっと思っている、恋愛相談師としての、心の底からあなたに伝えたい想いがあります。
その想いについては、この記事の後半に書いてますので、最後まで読んでもらえたらうれしいです。
1、過去の傷から破滅的な生き方を選びボロボロになった20代前半

まず経歴その1、メンヘラヤ○○ン時代からお話しします。
「え?あやさんってメンヘラヤ○○ンだったの?」
と思われたかもしれません。
はい、実は私にはそういう暗黒の時代があるんですよー。
これは、私が高校生から専門学校生だったころ、年齢で言うと18歳くらいから23歳くらいにかけての時代のお話です。
1ー1 3つの過去が私をメンヘラヤ○○ンに導いた
どうしてメンヘラヤ○○ンになってしまったのかというその経緯なんですが、
1つは、
私の家は父が転勤族で、小学生の頃から三重、横浜、広島、横浜みたいな感じであちこち転々としていた
っていうのがあります。
その影響で、私も転校が多くて、転校すると新しい環境で新しい同級生の中に入っていくわけだから精神的にも大変だし、なんとか頑張ってみんなと仲良くなれたって頃に父がまた転勤でみんなと別れなきゃいけないとか、そういうのを何回も繰り返していたので気持ちを処理するのがとても大変だったんですね。
2つ目は、
小学生の頃からすごく身長が高くて、同級生の男子たちからからかわれていたこと
です。
小学5年生の頃に、もう170cmも身長があったんですよ。

まわりの子たちよりも飛び抜けて高くて、男子から「のっぽ星人」とか言われて傷ついた上に、クラスの中で誰かが何か悪さをしたときに、私なんにも悪いことしてないのに、背が高いから目立つのか、なんか私がやったみたいに言われて、担任の先生に「私、やってません」って言っても信じてくれないどころか「そんな嘘をつくなんて汚い魔女だ」とか言われて、黒板に魔女の絵まで書かれたんですよ。
今なら即刻教育委員会行きの案件ですよこれ!
こんなふうに、これからだんだん思春期に入っていこうとする小学校5年生の頃に転校転校で気持ちが落ち着くヒマがないわ、のっぽ星人とか汚い魔女とか言われて心をグサグサ刺されて傷つくわ、それでもう、「ああ、私は女の子だと思われてないんだ」と思ってしまったんですね。
3つ目が、私ちっちゃい頃からずっとピアノを習って弾いていたんですね。
その頃は大学も音楽大学に行こうと思ってて、ピアノで食べていけたらいいなって、そんなふうにも思ってたんですね。
でも、途中で気づいちゃったんです。
「ピアノ、言うほど好きじゃなかったんだ」
って。
私はただ、母の期待に応えたかっただけなんだって、気づいちゃったんですね。
そこは良くも悪くも親の影響を受けていて、それに気づいたときにすごくショックを受けてしまったんです。

まとめると、
- 1つ目が、家が転勤族で転校が多くて精神的に大変だったこと
- 2つ目が、背が高くて「のっぽ星人」と言われたり、悪いことしてないのに悪いことしたように思われて、担任の先生も信じてくれないどころか汚い魔女とか言われて黒板にも書かれて心をズタズタにされたこと
- 3つ目が、好きでやっていると思っていたピアノが実はそこまで好きじゃなかった、母の期待に応えたかっただけなんだって気づいてすごくショックだったこと
すごく精神的にくるようなことがどんどんやってきて、もう自分の心が壊れるっていうようなことが重なって、私はとても自己肯定感が低くて自分に自信が持てない人間になってしまっていたんですね。
他にもいろいろ細かいことはあったんですが、大きなところでこの3つで、メンヘラヤ○○ンの方へいってしまいました。
1ー2 「変な恋愛」をするようになったんです
その結果、言ってしまえば「変な恋愛」をするようになったんです
変な恋愛ってなんだ?って思いますよね。
それはこんな感じなんです。
高校3年生あたりから、その頃にはウチの家族は横浜に住んでいました。
なんとか男の人と付き合えるようにはなるんですけど、やっぱりさっきの精神的にきてしまったいろんな経験から自分に自信が持てなくて、自分は男性から愛されるに足らない存在だって思い込んでしまいます。
男性から好きだと言われてもそれは嘘なんじゃないか、みたいに疑ってかかってしまって自分から関係を壊してしまうようなことをしてしまってたんですね。
そして、ピアノもやめたから大学はもちろん昔目指していた音大じゃなくて普通の大学の文学部に行ったんですが、大学生になっても男性とつき合う、男性を疑って自分から関係を壊してしまうっていうのを繰り返しました。
挙げ句の果てには、
「たくさんの男性とつき合って○りまくれば自分は愛される女になれるんだ」
っていう考えにどういうわけかなってなってしまって、そしてとうとうメンヘラヤ○○ンになってしまったというわけなんです。
もう誰でもいいって、ほんと手当たり次第っていう感じで自分から男性をつかまえていましたね。
この頃はもう自分で自分を追い詰めていてどんどん破滅の道に進んでいく感じでした。
正直、自傷行為をしたこともあります。
1ー3 母との喧嘩で心がズタズタになり地元を離れることを考え始めた大学時代
その一方で、私は母のいいなりになって何も疑わずにピアノをやってきた自分を認めることができなかったことで、母にも反抗的になってしまい、母ともケンカしてしまったんですよね。
母からしたら、私が子供の頃から娘を「盆栽のように育てたい」と言ってて、丁寧に大事に育てていたのに私がいつしか反抗的になって来たんで「なんなのよ!」って許せなかったんでしょうね。
そして学生の時に母と大ゲンカして、
「あなたみたいな人は母親にもなれないし、一生結婚もできないから一人で生きていくしかないよ」
と母から言われて、私すごく頭にきて
「なんでそんなふうにきめつけんの!」
って言い合いして、それで自分の気持ちがさらにズッタズタになったんです。
それで、大学3年くらいで卒業後の進路を考え始めた時に、
「もう嫌だ、横浜にはこれ以上いたくない。このまま普通に就職して横浜にいるっていうのは嫌だ!」
と思ってなんとか違う道がないだろうかと思ってたんですよね。
2、父の言葉と振り切った行動で沖縄の精神科の病院で精神保健福祉士として働き始める

ここから次の時代、精神保健福祉士時代に話は移っていくのですが、
心がすさんで自分で自分を破滅させるような生き方をしていた私が、どんな流れで精神保健福祉士という仕事に就くことになったのか
をお話ししていきますね。
「もうつらい苦しいことしかなかった横浜にはいたくない。このまま普通に就職して横浜にいるっていうのは嫌だ!」
と思っていたんですが、当時は就職氷河期で就職するのも大変な時代だったので、就職先もそこまで自由に選べなかったんですね。
それで、私もその現実を受けとめるしかなくて、だったらせめて、当時化粧品が好きだったので化粧品メーカーの美容部員になろうかな、って考えてたんですね。
美容部員というのは、デパートの1階に各化粧品メーカーが出店しててお客さんにメイクをしてあげたりしながらメイクのアドバイスをして化粧品を買ってもらう仕事をしている人のことですね。
そんな美容部員になろうかなと考えていた時に、ある日の朝、通勤する父と一緒の電車で大学に向かっていたんですね。
横浜の家から、父は勤め先の会社がある品川に向かい、私は品川から乗り換えて大学の最寄り駅まで行くんですが、その電車が通勤ラッシュで満員でギューギュー詰めだったんですよね。
で、その時に父が言ったんです。
「あや。反対側の電車を見てみろ」
その反対側、つまり下り方面の電車はガラガラだったんですね。
そして父はさらにこう言いました。
「あの下り電車に乗るような、違う道を生きる人生もあるぞ」
その言葉を聞いて、私はまた「このまま普通に就職して横浜にいるっていうのは嫌だ!」っていう思いが蘇ったんですね。
やっぱり、みんなと同じように就職するよりも私はなんか違うことをしたい!
と思って、でも、じゃあいったいなにをしたらいいんだろう、どうしようと思った時に、ふと、
「自分が今まで悩んで傷ついてきた人生だったから、人の悩みに寄り添う仕事ができないかな」
と思ったんです。
そしてそういう仕事で一人でずっと食べていけるような仕事ってないかなと思っていろいろ調べていたら、そこで精神保険福祉士っていう国家資格があるのを見つけたんですね。
精神保健福祉士っていうのは、統合失調症、うつ病、アルコール依存症などの、心に病を抱えた人の社会復帰をサポートする専門職で、国家試験に合格した人がその仕事に就けるんですね。
就職先としては、やはり病院が一番多かったです。
それを知った時、「あ、これって私にぴったりの仕事だ」と思って、それから大学に通いながら夜に精神保健福祉士の国家資格を取るための専門学校に通って、1年頑張って勉強して無事国家試験に合格しました。
じゃあ次に
どこで精神保健福祉士で働くか
ということになるんですが、父が「下り電車に乗るような、違う道を生きる人生もあるぞ」って言ってたのもあって、
下り、下り、と思って、なんと、
沖縄の病院に就職したんですね。
はい、電車も走ってない一番南の沖縄まで下ったということです。振り切っちゃいました!
といっても、沖縄に住みたかったわけではなく、ただ、一番遠くに行きたいって思って、その場所が沖縄だっただけなんですけどね。
沖縄に知り合いがいたとかでもないし、土地勘もないし、南国への憧れとか、海が好きとか、そういうのもなくて、ただ一番遠かったから沖縄に行こうと。
本当にそれだけの理由だったんです。
うるさい母親がいる横浜。
メンヘラで男関係とか人間関係とか自分から壊してしまって、さらに私がお酒を飲むようになってからは酔い方が悪くてなんか親しい人にもケンカ売って人間関係をさらに自分でめちゃくちゃにして、もう自分で破滅の道に進んでいた横浜。
そのくせ、まわりはみんな私のことをわかってくれないっていう被害妄想にもなったりして、とにかくもぐちゃぐちゃで、そんな日々を過ごしていた横浜。
そんな横浜からとにかく出ていって、遠くに行って環境を変えたいっていうのはすごく思ってたんですよね。
といっても、沖縄の病院で精神保健福祉士の求人が出ていたわけではありませんでした。
だけど、もう私は沖縄に行くんだ、環境を変えるんだって決めていたから、沖縄で精神科のある病院を調べて、全部で当時11個あったんですが、私、その11の病院全部に手紙を送ったんですね。
どこも求人募集なんてしてなかったのに。
だけど、とにかく自分の想いを書いて送ろうと。
「自分自身もこんなに悩んで苦しんできた。だから精神保健福祉士の資格を活かして悩める人を救いたい」っていう意気込みを手紙に書いて、11の病院に送ったんです。
そうしたら、そのうちの4つの病院から「面接に来てください」って言われたんですよね。
「よっしゃー!」と思って全部面接受けて、結果是非うちに入ってくださいって言われた病院があって。
だからもう私は「やったー!」となって、すぐ引っ越しの準備して沖縄に移住しました。
今思うと、この精神保健福祉士っていう国家資格は当時まだ新しくて、病院の中でこの資格を持っている人がまだまだ不足してたんですよね。地方の病院は特に。
だから、就職氷河期ではあったけど、運良く就職できたのかなと思います。
とはいえ、11個の病院に、求人もなかったのに手紙を送った自分のことは褒めてあげたいですけどね。
というわけで、ここから私は沖縄での生活を始めることになりました。
でも、ここまで勢いで就職決めて沖縄に来ちゃったので、あとになっていろいろお金かかって、たとえば移動も車がないと不便なので買わないといけないんだけどお金ないってなってしまったりもしました。
横浜の家を逃げ出すように出てきたから親に借りるわけにもいかないし、どうしようと思ってたら、勤めた病院で貸付制度みたいなのがあるのを知って、すぐに申し込んでお金を借りたりもしました。
3、成果を上げると叩かれた精神保健福祉士としての6年間
さて、そういうことがありながらもいろいろ生活環境を整えて
精神科の病院で精神保健福祉士として働き始めたわけですが、ここで私は
病院という組織の壁、そして人間関係の問題にぶち当たってしまいます。
3ー1 精神科の病院で大きな大きな壁にぶち当たる
どういうことかというと、
私は精神保健福祉士として、
病院が運営していた精神障害者社会復帰施設で、精神科の病でずっとその施設に入所している人を社会復帰できるようにサポートする仕事
をしていたんですよね。
その中には、なんと40年も入所している患者さんがいて、病院の中でも「もうこの人は退所するのは無理だろう」って思われていた患者さんがいました。
なんと私、その人を退所して社会復帰できるレベルまで改善させることができたんですね。
その患者さんも「退所したい。自立して生きていきたい」って言ってて、表情も明るくなってきてたんです。
だけど、退所できるかどうかの最終判断はやっぱり医師の先生じゃないと決められません。
その先生が「まだ退所はさせられない」って言うんですね。
「どう見ても退所できるでしょ、という感じなのに、退所させられないってなに?」
と思ってたら、どうやら病院の経営上の問題でまだ施設にいさせなきゃいけないっていうのが見えてきたんですね。
退所できるのに病院経営に都合が悪いから退所させないでおくっていうことに私は納得がいきませんでした。
これが、組織の壁にぶちあたった出来事です。
一方で、私は他の患者さんをどんどん改善させていくことができたんですよね。
そうしたら、出る杭は打たれるって感じで、結果をどんどん出していく私のことがおもしろくないスタッフも出てきて。
それが、人間関係の問題です。
特に、当時の私の上司がもうあからさまに私にきつくあたってくるんです。
私にやることにいちいち反対するし、あれこれ用事は言いつけるし、
私の考えを否定するし。
だからもう、この上司の顔を見るのも嫌になってきて、
「この施設で働いてもいいことないな」
「退所できる患者さんも退所させないようにしてるのも自分としては納得行かないから、どうしようかな」
と思い始めたんですね。
今思えば、私が患者さんを退所させられるレベルにまで改善することで、ずっと入所させておきたい病院としては困ってたんでしょうね。
上司も経営陣から怒られるっていうのがあって、だから私にきつくあたっていたのかもしれません。
でも、患者さんを生かさず殺さずみたいにしておくなんて私にはできませんでした。
だって、自分自身も横浜時代に苦しんで苦しみ抜いてきて、そこから脱したいってずっと思ってきたわけですからね。
「苦しみから脱したい」っていう気持ちが痛いほどわかるから患者さんを生かさず殺さずなんて絶対できなかったです。
でも、そんなことを思っても自分の力では施設の現状を変えることはできなくて、私は沖縄に逃れて新しい環境で頑張ってきたのにここでもまた追い詰められて、おさまっていたメンヘラヤ○○ンの症状がまた出てきてしまったんですね。
だから、この病院にはもういないほうがいいかな、
と思っていたある日、今でも忘れられない、衝撃的な事件が病院で起こったんです。
3ー2 病院をやめるきっかけになったあまりにも衝撃的だった事件
施設に入所している患者さん同士でトラブルになって殺人事件が起きてしまったんですね。
これは私は本当にショックでした。
それは自分が勤めている施設でそんな事件が起きてしまったというショックもあるんですが、それ以上にショックだったのは、その患者さん同士ってもともとは仲が良かったんです。
それを私は知っていたので、あんなに仲が良かったのにどうして、というショックのほうが大きかったですね。
しかも、亡くなった患者さんの部屋には私と一緒に写ってる写真がたくさん飾られてて、そんなに私のことを好きでいてくれた人が亡くなってしまったというのが本当につらかったです。
でも、この事件に対して病院は「病院側は悪くありません」というメッセージを強調していました。
その対応を見て、私が持っていた病院に対する疑問はさらに大きくなっていきました。
「やっぱり病院の経営の都合で患者さんを生かさず殺さずなんてダメじゃないか」
「ちゃんと改善して退所させなきゃダメなんじゃないか。」
そんなジレンマを抱えながら、それでも生活があるから勤め続けていたときに、ある日の夜にちょっと不思議な夢を見たんです。
夢ってだいたい不思議なシチュエーションが多いですけど、その夢でもそれが当てはまっていて、
なぜぜだかわからないけど、私は赤ちゃんを抱っこして逃げてたんですね。
どうして逃げてたのかっていうと、まわりから「こいつは敵だー!」って追っかけられててつかまりそうになってたからなんですね。
で、つかまりそうになったんだけど、私は抱きかかえてた赤ちゃんを守らなきゃいけないから、私を捕まえようとした人たちを殺そうとしたんですね。
もちろん夢の中で、ですからね!
そしたら、なぜか、私が抱きかかえていた赤ちゃんが相手を殺そうとする私の手をつかんでとめるんです。
「え?なんで?この人たちは私たちを殺そうとしてるのになんで私の手をつかんで止めるの?」
覚えているのはそこまでだったんですが、「これっていったいどういうことなんだろう」と思っていたときに、職場の先輩で心理カウンセラーの方にその夢のことを話してみたんですね。
そしたら、その赤ちゃんの手っていうのは
自分の潜在意識の深い部分の表れで、
今まではまわりは敵だという感じで戦ってきたんだけど
もっと、自分を追い詰めてくるような人とでも敵視するんじゃなくて
対話して調和して愛し合う生き方、赦して愛すという生き方をしていくほうがいいんじゃないか、
というメッセージだという話をもらったんですね。
それって病院の上司たちも敵だと思わず、調和して愛し合う生き方をしたほうがいいということだったかもしれないんですが、やっぱり私が他のみんなよりも入所者の人を改善していい結果出したり、一生懸命働いているのがそもそもみんなと調和してなかったんですよね。
みんなは「もっとのんびりやりたいのにそんな一生懸命働かれたら困る」とか、上司も自分より目立ってほしくないっていうっていう雰囲気を常に感じてたんでこれはもう、ここにはいられないと思いました。
そんなときに、私はオーラソーマカラーケアシステムというものに出会います。
3ー3 オーラソーマカラーケアシステムとの出会い6年間勤めた病院を退職
オーラソーマカラーケアシステムっていうのは、イギリスの薬剤師さんが生み出したカウンセリング手法の一つです。
いろんな色で構成されたボトルから4本を選んでもらって、そこから自分の本質とか強み、今の状況、あるいは未来の可能性を明らかにしていく方法です。

この方法に出会って学んでいくうちに、
「もっと精神科の病院に入る前の段階で改善できるサポートがしたい」
って思うようになりました。
精神科の病棟に入るって、もう最終的な段階じゃないですか。
それなのに、私が入所者を改善すると病院側としては困るみたいな。
そんなふうになるくらいなら、自分自身でその人が精神科の病院に行かなくて済むようなサポートがしたいって強く思うようになったんですね。
自分も自傷行為の経験があるんで、そんなことをするくらいにならないように助けけたいって気持ちもありました。
それで他にも産業カウンセラーの資格を取ったり、とにかくスキルアップをして、私は病院を退職しました。
結局病院には6年間勤めました。
とはいえ、退職した理由はちょうどこの頃子供も授かっていたっていうのもありました。
退職したのが29歳の頃で、その3年前に結婚してたんですよね。
そして、心理カウンセラーとして起業することになりました。
4、心理カウンセラーを始めてみて分かった「みんな恋愛について相談したい」ということ
というわけで、ここからは心理カウンセラー時代のお話になります。
心理カウンセラーとして起業した始めのうちはポータルサイトのお悩み相談室にカウンセラー登録して電話カウンセリングを受けるところから始めました。
これが実は、私が恋愛コンサルや復縁コンサルをすることにつながっていくんですよね。
なぜかというと、これは最初私も驚いたんですが、電話カウンセリングの相談内容の、ほぼ9割くらいが恋愛相談だったんです。
今までは病院でリアルに人を直接ケアしてサポートしていて、その時は恋愛相談なんてほぼほぼありませんでした。
ポータルサイトに登録したときも「恋愛相談に強いです」とか一切書いていません。
それなのに、フィールドをインターネット上に変えて相談を受け付けてやりとりっていうふうになったら相談内容がほとんど恋愛相談になったんです。
でも、当時は恋愛のカウンセリングをする経験が足りなかったから、いろいろ本を読んだり専門の講座に行ったりしながら研究してました。
恋愛テクニックも学びましたが、それ以上に自分にとってすごく学びになったなと思ったのは、恋愛に悩む背景に、その人の親との関係とか、自己肯定感、自信のあるなしとか、そういう問題がいろいろ関わっているっていうのががわかったことです。
そんな学びを深めながら、とにかく相談者さんの話をしっかり傾聴しながら、少しずつ恋愛カウンセリングの経験を積み重ねていった感じですね。
で、そうやって経験を積み重ねていくと、相談を受けた時に、
- これはテクニックの問題だなとか、
- これは恋人とのコミュニケーションのずれが問題だなとか、
- 親の影響を受けて形成されてしまった性格が影響してるなとか、
- あるいはそうした問題がいろいろ重なってるなあとか
そういうことがわかってくるんですよね。
それで私のカウンセリングの精度もどんどんあがってたくさんの人に喜ばれたので、そのあたりから私は自分を「恋愛相談師」と名乗るようになりました。
なので、心理カウンセラー時代から恋愛相談師の時代になるっていうのはスイッチが切り替わるようにパッと変わったわけではなく、徐々に徐々にスライドしていった感じですね。
5、失恋したときこそ人生を大きく変えるチャンスなんだと知った恋愛相談士時代

で、恋愛相談をたくさん受けてきたんですが、その中で復縁に関する相談も多くて、その復縁相談を受けるたびに
もう、この人たちを絶対助けなきゃ
って、使命感に駆られたんですよね。
なぜかというと、復縁したいと思っている人は、大切な愛する人を失ったショックでそのままだと心を病んでしまうということが手に取るようにわかったからなんです。
私自身、精神科病院で精神保健福祉士として働いてきて、何人もの患者さんを見てきました。
その患者さんがなぜ精神を病んでしまったのか、その元をたどっていくと、
やっぱり人とのつながりが途切れて、つらい状況なのに誰も味方になってくれる人がいなくて孤独感にさいなまれて助けを求めても助けてくれる人がいなかったからそれで病んでしまった
というケースが本当に多かったんですね。
だから、失恋して大切な愛する人を失った人も、同じように孤独になって、つらい状況なのに誰も味方になってくれる人がいない状況だと、やっぱり精神的に来てしまうというのがもう目に見えるようにわかってしまいます。
実際、復縁の相談する人は声の雰囲気もすごく重苦しくかったし、暗かったし、「私が味方にならなきゃこの人どうなってしまうかわからない!」っていう感じだったですからね。
そうなってしまう心理状況は私自身も横浜時代に何度も失恋を経験してきたんで、すごくよくわかるんです。
失恋から立ち直るって大変だし、沖縄に来たのもそんな時代から逃れたいっていうのもあったし、だから復縁の相談をする人たちの気持ちもわかって、
「なんとかしてあげたい!私が味方になる!」
っていう気持ちで寄り添っていました。
やっぱり私たちは、人とのつながりの中でしか生きていけないんですよね。
一人じゃ生きられないって言いますがほんとにそう思います。
なのに、そのつながりがない、また、つながりを失うということは生きていけないくらいつらくて心が大変になるわけです。
私はそういう人を「精神科の病院に行かなくて済むように救いたい!」という想いでカウンセラーに転身したんで、ほんと、恋愛相談の中でも復縁の相談は特に相談者さんに寄り添って、向き合って味方であり続けましたね。
でも、ただ味方であり続けるだけでは復縁にたどりつけないので、そこもまたいろいろ学びを深めていきました。
その中で発達心理学やトランジションのことを学んで、
たとえば失恋したときってつらいけど、それはその人の人生にとって意味があって、人生を大きく変えるチャンス、自己成長するチャンスなんだ
っていうことがわかったんですね。
そうして、成長した自分になることで、元恋人もその姿を見て惚れ直してくれて復縁に結びつくこともわかりました。
だから、失恋したのはつらいけど、立ち止まって落ち込んでいるところから少しずつ前を向いて、自分を成長させていく方向にサポートするようになりました。
その結果、かなりたくさんの相談者の復縁を成就させることができました。
で、当時はまだ復縁の相談って女性の方が圧倒的に多かったんですが、女性からの復縁相談を受けているうちに、だんだん、「あ、この女性心理、男性に教えたい!」って思うようになったんです。
6、「女性が愛してくれる男性になって復縁を叶える」そのサポートをしています
女性からの相談を受けていると、
これ、男性がもっとこの女性に気持ちに気づいていたら、わかってあげていたら、別れずに済んだんじゃないか
って思うことが増えてきたんですよね。
そして、男性で元カノに別れを告げられて復縁したいっていう人も、当時私の電話カウンセリングに来る人は少なかったけど世の中にたくさんいることはリサーチしてわかっていました。
そういう男性たちは、やっぱり女性じゃないから女性心理がなかなかわからなくて、だから「女性心理ってこうだよ」って私が教えてあげることで、
女性が好きになってくれる、女性が愛してくれる男性になって復縁も叶うっていうことにつながるんじゃないか
って思ったんですよね。
あとは、元カノと復縁したいって思ってる男性は、一歩間違うとストーカーまがいのことをしてしまう人も多くて、それって相手の女性も迷惑だし、その男性にとってもいいことはありません。
そういう意味でも、お互いがそんな悪い流れにならないように私が助けたい、そして良い人間関係、人と人との良いつながりができていくようになればいいなと思って、男性向けの復縁サポートもしたいと思うようになりました。
でも男性の復縁相談は電話カウンセリングにはあまり来てなかったから、いろんなメディアに情報発信するようになったんですね。
それと、やっぱり電話で一人ひとり相談に乗っているだけだと寄り添える、味方になれる人の数にどうしても限りがあります。
できるだけたくさんの人の助けになろうと思ったらやっぱりネットを通していろんなメディアに情報発信して私のことを見つけてもらって知ってもらうってことをしなきゃと思いました。
それがこのブログメディアだったり、YouTubeチャンネルだったり、あとはホームページ、Instagram、ポッドキャスト、そして電子書籍だったりします。LINEもそうですね。
ちなみに、2016年8月に出版した
『引き寄せはもう古い!誰でも好きな女性と付き合える15のセルフカウンセリングワーク』
はAmazonの文化人類学・民俗学部門でランキング1位を獲得しました。
同じ年の11月に出版した
『一瞬で心がつながる技術 パノラマコミュニケーション』
は”恋愛だけでなくあらゆる人間関係に応用できるコミュニケーションスキル”として、幅広い層から支持されています。
そして2017年6月に出版した
『真面目男子が確実に彼女を作る24のモテ作法~30歳から始める恋活・婚活ゼミナール~』
は、こちらもAmazonの文化人類学・民俗学ランキングで1位を獲得し、”新時代の恋愛バイブル”として今でもたくさんの男性に支持されています。
で、こんなふうにいろんなメディアで恋愛や復縁の情報を発信するようになると、以前の私しか知らない人たちは、私が急に恋愛とか復縁の悩みを解決する恋愛相談師ということで登場するからまあ驚くわけです。
でもそれだけだったらまだいいんですが、
- 「なんで恋愛相談の専門家みたいになってんの?」
- 「セ◯◯スの話もしてていやらしい」
- 「人の弱みを食い物にしてる」
みたいなことを書き込まれたり、直接言われたりもしたんです。
特に、私がこんなふうな活動を始めたのは2016年くらいの頃で、当時ってまだ恋愛や復縁についての情報発信をする人って男性ばかりだったんですよね。
今でこそ女性の方も出てきましたけど、当時は男性しかいなくて、「変なやつ」とか「恥知らず」とか書き込まれたわけです。
ウチのダンナさんも、知り合いの人に「奥さんあんなことしてて大丈夫?」とか言われたんですよ。
でも、私は誰のために活動してるかって言えば、そんな誹謗中傷してくる人たちのためではもちろんなくて、恋愛に悩んだり、復縁したいと切実に願っている男性・女性のために活動しています。
だから、心ないことを言ってくる人たちはもうブロックしてやりました。
そして、恋愛や復縁に悩む男性・女性に寄り添い、その悩みを解決させて恋愛成就、復縁成就できるように、ずっと活動を続けてきて現在に至ります。
7、大切な人や心の拠り所となれる人とのつながりが結ばれて世界がもっと幸せになりますように

今でこそ、恋愛相談師として恋愛や復縁に悩む男女に寄り添い、アドバイスを送ったり、こうしていろんなメディアで情報発信している私ですが、それは今回のお伝えした私自身のさまざまな人生経験がベースになっているんですね。
なので、
私は単に恋愛や復縁のテクニックだけを教えているのではない
ということを、わかっていただけるとうれしいです。
そもそも私がここまでお話ししてきたような人生を経験してきて、
人生で一番大事に思っていることは
「人は人とつながっていなければ生きていけない」
ってことなんです。
たとえば、前半でもお話しましたが、精神保健福祉士として精神病棟に入っている患者さんにそれまで状況を聴いてみると、
やっぱり人とのつながりを失って誰かに助けてほしい時に誰も助けてくれなくて精神を患うことになってしまった
っていう方が本当に多かったんですね。
だから私は、その患者さんに私とつながっているという安心感を持ってもらって、そこから一緒に頑張って改善してきました。
恋愛や復縁に悩む人も、大切に思っている人とつながれないっていう苦しさがあるわけなんですよね。
たとえば、仕事で失敗して上司に怒られたとか、会社の人間関係がうまくいってなくてとか、そういう時でも恋人がいてくれたからめげずに頑張れる、強く生きられるっていうの、ありますよね。
だけど、その恋人に別れを告げられたらどうでしょう。
その大切だと思っていた人とつながれなくなったショックは計り知れませんよね。
そして、もう誰も味方がいないという絶望感、孤独感で、精神的に来てしまうこともあると思います。
実際、私が相談を受けた人に中には自暴自棄になって警察沙汰になったり精神を病んだ人もいます。
今まで恋愛相談や復縁相談を含め、いろんな人生相談を受けてきましたが、たとえお金をたくさん稼いでいても、仕事でそれなりの地位があっても、自分のことをわかってくれる人がいない、愛のつながりがない人は、やっぱり心が折れて、壊れてしまうんですよね。
実際、公務員で、家の財産もあり、お金もたくさんあるのに「私のことを誰もわかってくれる人がいない」ってうつ病になって自殺寸前までいってしまった女性がいました。
カウンセリングを重ねて職場復帰して、新しくできた彼氏と同棲して元気に活躍するところまでもっていったような話もあります。
失恋して、経営していたお店も手放して借金もふくれあがって「何もかも失ったから死にたい」と相談してきた男性も前を向けるように改善したこともあります。
だからこそ、人とのつながりって本当に大事だなと思うんです。
だから、私は恋愛や復縁を成就させるっていうのは単にそれだけをサポートしているというつもりはなくて、
「大切な人、心の拠り所となれる人とのつながりが持てて、その人が強く明るく前向きに生きていけるサポート」
をしているんですね。
そして、そういうつながりを持てるようになるまでは、ひとまず私とつながってもらって、私の情報発信やアドバイスを見聞きすることで、また私に相談することで元気を取り戻してほしい、希望を持ってほしいなって思っています。
そんな想いでサポートしているので、ただ単に「復縁したいからそのテクニック教えて下さい」っていう相談には応じていません。
確かにテクニックはあります。
だけど、そのテクニック「だけ」を使って仮に復縁できたとしても、その人が自分本位で自分だけの幸せを考えてて相手を幸せにするっていうふうに考えてなかったら、以前付き合っていた頃よりも人間的に成長していなかったら、いずれまた、別れを告げられてしまうと思います。
だから私は、その人がしっかり自信を持って生きられる、相手を幸せにしてあげられるっていうように成長できるようなアドバイスも送ってるんですね。
その成長があってこそ、人と人とのつながりもよいものになって長く続くわけです。
ここは私、とても大切にしています。
それもやはり、ここまでお話ししてきた私の経歴が背景としてあります。
ちょっと大きな話になるかもしれませんが、私はやっぱり世界が幸せになってほしいなって思ってるんですね。
で、で、その幸せの最初の単位ってやっぱりパートナーだと思うんですよ。
このパートナーっていうつながりがうまくいっていたら、そういうパートナーが増えたら、その最初の「愛の単位」ともいえるべきものが世界に広がって世界が幸せになっていくって思ってるんですね。
もちろんそんな簡単なことではないと思ってはいます。
だけど、少しでも世界が幸せになるようにと、そんな想いで私は恋愛や復縁の相談を受け、情報発信もしています。
だから、私のことは単に恋愛や復縁を成就させる人、みたいなことではなくて、その恋愛や復縁の成就を通して世界の幸せにつなげたい人っていうふうに思ってもらえるとうれしいです!
まとめ

最後はふざけた写真をお届けしましたが、今回は私の経歴ヒストリーを語ってきました。
1、過去の傷から破滅的な生き方を選びボロボロになった20代前半
2、父の言葉と振り切った行動で沖縄の精神科の病院で精神保健福祉士として働き始める
3、成果を上げると叩かれた精神保健福祉士としての6年間
4、心理カウンセラーを始めてみて分かった「みんな恋愛について相談したい」ということ
5、失恋したときこそ人生を大きく変えるチャンスなんだと知った恋愛相談士時代
6、「女性が愛してくれる男性になって復縁を叶える」そのサポートをしています
7、想い
いろんなメディアで私が発信している内容は、今回お話してきたような人生経験、そしてカウンセラーとしてさまざまな相談を受けてきた経験から人とつながるうえで本当に大切だと思うことを話しています。
最後に、私がずっと変わらず持ち続けている思いをお話しします。
それは
「人は、どんな絶望的な状況にいても、”支えてくれる誰か”がいたら、強く生きられます」
ということです。
その「支えてくれる誰か」とつながれるように、私はこれからも恋愛や復縁に悩む男性・女性をサポートしていきます。
最後までお読み頂き本当にありがとうございました。
永峰あや